ビリー・ホリデイと、《奇妙な果実》

「お前、殺されちまうよ」
もちろん、母親は反対した。それでも、ビリーは、
「わたし、あの歌が気に入っているのよ。あの世にいけば、そのことがわかるさ」
とばかり、聞き入れることはなかった。

ビリー・ホリデイと《奇妙な果実》』デーヴィッド・マーゴリック著 小松 公次訳 大月書店刊。

1939年の初頭のある夜、ビリー・ホリデイが、『奇妙な果実』をグリニッチ・ヴィレッジのナイト・クラブ・「カフェ・ソサエティ」で歌ったとき、アメリカ音楽の歴史が変わった。そればかりか、彼女自身の人生をも変えてしまった。

「わたしが歌い終えたとき、ひとつの拍手さえ起こらなかった」
と、ホリデイは、その時のことを、自伝に書きおこしている。しかし、バーニー・ジョゼフソンが、進歩的な思想に共鳴して考え出された「カフェ・ソサエティ」の客は、頭のかたい、もったいぶった人たちではなかった。
「やがて、そのうちのひとりが、ぎごちなく拍手をしはじめた。すると、突然そこにいたすべての人が、拍手した」

プロテスタント音楽が未知数だった当時、人種差別の憎しみを真正面から描いた、この新しい歌を歌うことは、とても恐ろしいことだった。ホリデイの一連の作品のなかでは、異色の存在ではある。失恋の痛みや、孤独を好んで歌う女性歌手から、才能あふれるジャズ歌手に変貌をとげていくなかで、この歌の持つイミは大きい。

1959年、44歳の若さで亡くなるまで、ホリデイはその短い人生を通して、この歌を数限りなく歌った。ヘロインと、アルコールがかの女の体をむしばみ、ついぞ安らぎを得ることはなかったが、あるイミ、素晴らしいときを過ごしたともいえるのだ。

とりわけ、肖像写真家ロビン・カーソンが撮影したホリデイの写真は、あまりにも有名だ。本書の表紙をかざっている肖像写真が、それだ。お気に入りのクチナシの花を髪にさし、目をなかば閉じながら、指でリズムをとるシグサで、このうえなく優雅に、上体をゆらして歌った。

高校の英語教師、エイベル・ミーアポルが詩を書き、自ら作曲した。かれは、白人で、ユダヤ人だった。ルイス・アレンというペン・ネームを使って、作家、詩人、作曲家でもあった。と、同時に秘密の共産党員でさえあった。

この詩の着想をえたのは、1930年インディアナ州マリオンで起きた、二つのリンチ事件の写真が公開されたときだ。それは、かれに衝撃をもたらした。発表されたのは、教員組合の刊行物だった。そのときのタイトルは、「苦い果実」。

革新的なサークルにおいて、それも定期的に歌われていたようだ。そんななか、スペイン市民戦争での、反ファシスト義勇軍への義捐金を集めるコンサートが開かれ、そのプロデューサーであったロバート・ゴードンは、カフェ・ソサエティの舞台演出をも担当していた。ホリデイはというと、そのころアーティ・ショー楽団を辞めたばかり。

そのゴードンから話を聞いた「カフェ・ソサエティ」のオーナーであるジョゼフソンが、その歌をナイト・クラブに持ってくるように頼んだのだ。

「どうしたいのだ? 」
と、その歌にすっかり打ちのめされたジョゼフソンは、ミーアポルに訊ねた。
「ビリー・ホリデイに歌ってもらいたい」
とこたえ、ホリデイのために、ピアノの前に座った。ティンパン・アレー風でもなく、ジャズでもなく、むしろブリュノスタインの伝統的なキャバレー音楽に近かった。

ホリデイはといえば、まったくといっていいほど、無関心だった。それもそのはず、かの女の今まで歌ってきた歌とは異質だったし、歌詞はあまり気持ちのいいものではなかったからだ。でも、彼女は、ジョゼフソンへの好意からだけで、この歌を歌った。

ただ、詩は素晴らしいものではあったが、ジョゼフソンは編曲家のダニー・メンデルソーンにわたし、かれが手をいれ切れ味のいいものにつくりあげた。以前仲間うちで歌ったことのある歌手は、ジャズらしきものになってしまった。もっと元気があって、パンチがあったと回想している。

あるイミ、世間知らずで、漫画以外まともに読んだことがないホリデイが、この歌の意味するところを果たして理解したかどうか。これ以後も、この歌が歌われるたびに問題とはなった。

けれども、ミーアポルによれば、「カフェ・ソサエティ」でのお披露目のさい、冒頭から確信を持って歌い、内容をちゃんと理解して歌っていたという。

ホリデイは、歌う歌すべてを自分なりにひとひねりして歌っていた。この歌も、例外ではない。また、ジョゼフソンは効果をねらって、真っ暗ななかでピンスポットで彼女の顔を照らし、歌い終わると、ライトを消し、ホリデイを舞台から降ろした。それは毎晩3回あるステージの、それも決まって、一番最後に歌わせた。
「わたしはこの歌を歌わなくてはならないのよ。なぜって? この歌は南部のあちこちで行われている黒人虐待がどんなものかを語るのに大いに役立つからよ」
と、ビリーは自伝で語っている。

レコード録音は、簡単ではなかった。ホリデイをプロデュースしていたジョン・ハモンドは、この歌が嫌いだったし、
「芸術的に見れば、この歌は、ホリデイのレパートのなかで最悪なもの。ビリーにとっては、終わりの始まりが、この歌」
と語り、コロンビア・レコードは、南部の顧客を敵にまわすことを恐れた。ホリデイはそれではと、左翼系の小さなレコード店であったコモドア・レコードのミルト・ゲーブラーを説得にかかった。

B面をかざった「ファイン・アンド・メロー」をはじめ、録音には、たっぷりと4時間をかけ、いい作品にしあげようとしたが、ゲーブラーは肝心の『奇妙な果実』が短くてだまされたということを心配して、曲がクライマックスで締めくくられるように、元ホリディの婚約者でもあったソニー・ホワイトに、ピアノの前奏を即興でやらせた。

この歌を歌っているとき、かの女は自分自身の世界に没入していたのだ。かの女が味わったあらゆる敗北や、背負ってきた多くのつらい出来事が増えるにつれ、よりいっそうこの歌は、かの女自身のことを歌っているように思われてきたのだ。
「わたしはこの歌を理解して、そのよさが分かる人のみのために歌う」
と口ぐせのようにいっていたが、ある近しいミュージシャンはこうもいった。
「聴衆は彼女のメガネにかなわなくてはならなかった。そして、この歌を歌った後では、アンコールは決してなかった」

ホリデイがヘロインに手を出し始めたのは、どうやら1940年代に入ってからで、それ以前はやっていなかったらしい。母親の死や、かの女を虐待する男との悲惨な関係も加わって、ヘロインはホリデイの人生を自暴自棄のどん底に突き落とした。しかし、どんなに自分を傷つけようが、不安定で当てにならないときでも、演奏は素晴らしく奇跡的でさえあった。

晩年になるにつれ、ホリデイがこの歌を歌うことは、次第に少なくなっていった。この歌が自分を傷つけるからといって、嫌ってもいた。”南部の木にはふしぎな実がなる”という有名な出だしから、この歌は始まる。

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,
The bulging eyes and the twisted mouth,
Scent of magnolias, sweet and fresh,
Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck,
For the rain to gather, for the wind to suck,
For the sun to rot, for the trees to drop,
Here is a strange and bitter crop.

「”Pastoral scene”ってなんのこと? 」
無邪気な子供の問いかけに、ホリデイの表情はさっと冷酷になり、その声はまさに軽蔑しきったような響きになって、そのしわがれた声で、
「これはねぇ坊や、白人たちが黒人たちを殺しているときのことなんだよ。(略)」
と、その意味を説明したあと、
「これが、くそいまいましいのどかな風景ってやつなんだ」
とばかり、子供を恐怖におとしいれ、その母親に衝撃をもたらした。ホリデイ、死の1年前の出来事であった。やつれてほとんど憔悴しきった彼女の到達した境地はあまりにも痛ましく、思いのほかすさまじいものだった。

1959年7月17日、彼女のつらいたたかいも終わった。

(参考図書;『奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝』 ビリー・ホリデイ著 油井 正一、大橋 巨泉訳 晶文社クラシックス刊)

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